本書は、佐藤正午氏がデビュー直後に書いた、幻の未発表作品である。本屋をふらついている時に、表紙の雰囲気と、帯に書かれていた「あなたの心の中に生きているのは、誰ですか?」という文章に惹きつけられて、手に取った。
50代の男性が、幼なじみの訃報を聞き、彼女との過去を回想するかたちで、物語は進む。彼女との思い出が、散りばめられた宝石のように、キラキラと断片的に甦る。
以前病を患ったときに、「私は三十だけ死んだ。」と言っていた彼女。
コーヒーを丁寧に入れる、華奢な彼女の後ろ姿。
照れながら手をつないだ小学生のとき。
そうした何気ない、ふとした瞬間が、今でも記憶に残る。
美しい過去だから憶えているのか。それとも過去だから美しいのか。彼女とはもう随分会っていなくて、そしてこれからも二度と会うことはなかったのかもしれない。
そして今になってこの世に彼女が存在していないと知ることは、むしろ心の中の彼女の存在を大きくするのかもしれない。果たして最後のとき、彼女は彼のことを想ったのだろうか。
15分程度で読めてしまう本書は、大人用の絵本といった体裁だ。牛尾篤氏の素敵な挿絵と、さらりとした、だけど心惹きつける文章。かなり地味だけれど、こういう作品は大好きだ。心を柔らかくほぐしてくれる。
その渦中にいるとなんでもない出来事が、あとから振り返ってみるととても尊いものだったと気づくことは、誰しもあるのではないだろうか。
本作は、そうしたかけがえのない日常への気づきを与えてくれる。また、著者の言葉に対するとてつもないこだわりを感じる。著者は日常でもずーっと言葉のことを考えてるんだとか。
お茶でも飲みながら、一息つきたいときに読んでみてください。