先日、10月16日掲載の書評で、冒頭の「ドア」の節は要らず、「おくるみ」から、私なら始める、と批評した。つまり、「おくるみ」の節が、ほんとうに見事なのである。詩人らしく、一言一句全て整い正確で、それゆえ破れている。読み進めない理由はない。
つぎの「産着」の衝撃も強い。私も、次女のお産では破水が先で、産婦人科まで送ってくれる夫の車が揺れるたびに冷や汗が出た。羊水が全部出てしまうと、感染症を起こして赤ちゃんに危険が及ぶと聞いていたからだ。運転する夫も、緊張していた。夫の車に乗っていても、なおかつ2回目のお産でも、あれだけ心許なかったのだから、誰一人頼れない状況での初産で、その状況…は、想像を絶する。絶するのに、この文章を読むと、目の前にありありと様子が浮かんできた。
私にとって、「ドア」の節は、読み始めるための枷になった。しかし、作者にとっては、この「ドア」が不可欠なのだろう。自分にとっての、大きなトラウマに触れるとき、通常は安全弁が必要だ。私のように全開にしてしまっては、この世とうまく繋がれなくなってしまう(笑) しかし私にとっては、このドアは不要だし、資本主義でタイパコスパ重視の消費者たちにとってもまた、おそらく同様であろう。
文学の畑に足を踏み入れたばかりの頃の私は、「文学の役割は終わった」、「文学が果たすべき役割は、すべて精神医学がやってしまった」と感じていた。しかし、私は精神医学に、不完全さがまだ多々あり、文学のーーとりわけ女性の精神についての文学が、人間界をよりよくするために重要な役割をもっている事に気が付いた。それは、ハン・ガンが取り組んでいる"トラウマの癒し"を中核となしている部分だと思われる。私もまた、トラウマ治療を手探りでおこなっている。私のトラウマ治療は未完である。未完であるが故に、この「ドア」の存在を、否定してしまったのだろう。この「ドア」には大切な役割がある。
私は、文学に足を踏み入れたことで、自分が修めた臨床心理学よりも、文学の方が高い位置にあることを学んだ。心理学がまだ新しい学問で、文学の歴史の、足元にも及ばないことから、それはまあ、さもありなん、ということなのかもしれないが…。文学が、まさか科学を牽引しているとは、思ってもみなかった。
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それにしても、ノーベル「文学」賞を、受賞者の原文で読めないとは、文学を志す者として、なんたることだろう。それでも、その美しさを再現してくださった、訳者の斎藤真理子氏の偉業を讃えたいです。
韓国語はおそらく、他のどの言語よりも、感覚的な面で日本語と近いはずだ。ノーベル文学賞受賞者の感覚に近い文章で読めるということは、日本語を母国語とする私達にとっても、良質の文学を味わう良い機会になる。
出産は、男性の身には起きないことだけれど、かならず男性もお母さんのお産を経てこの世に生まれたのだから、その事実と無関係ではいられないはず。お産は、全人類にとって、自分事である。
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「白い街」の節は、ワルシャワのことであるらしい。世界史については"履修漏れ世代"のため、私には残念ながらあまり地理的な実感が沸かない。それにしても、履修漏れ問題のなんと恥ずべきことか。世界史も倫理も未履修で、学士を気取って恥ずかしい。
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筆者は、生まれて2時間で死んだお姉さんの影に取り憑かれて生きてきた。似た境遇をもつ詩人が、日本にもいる。やはり似たような雰囲気の文体で、安定的に少し宙に浮いた、安定的に詩的な文章を書く方だ。彼女らの文章には、死が常にそこら辺に、ナチュラルにふわふわと浮いている。2人とも、「もう1人」を、サバイバーズギルトの上に載せ、二重の五感で生きている。しかしハン・ガンの文章からは、より力強さがーーどうかすると愉快ささえ滲み出ている。
ああ、
この力強さは、第一章第一節の、私が要らないと言った「ドア」の印象が支えているものなのだろう。作者はこの説で、日曜大工を行っている。この節がないと、著者のイメージを、非常に弱い人として、読者に届け兼ねない。その意味で、読者に対する重要な意味をもっていたのだ。私は浅はかだから、その節の存在の意味を、全く予測できなかった。
それにしても2人とも、自分自身を突き離して、ずいぶんと遠くから眺めている。その視線がもう既に、詩的なのだ。
本書の節の区切り方は、たくましい女性のそれらしく、非常に潔い。冒頭の「おくるみ」もとても短い節だが、負けず劣らず短い「乳」の節も、私には衝撃的であった。
赤ん坊の存在を感じると、おっぱいが張る。自分の人生とは一切無関係な、生命の本能を、自分の中にじんじん感じる瞬間である。およそ人生などというものを、相対化させてしまうあの瞬間が、こんなにも厳しく女性の精神を打ちのめす。
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第2章の「雪片」は、私は好きではない。小説家の父のもとで育った筆者に、資本主義のにおいが染み付いているのを感じた。孤独は、ぞっとすると書くほどのものでもない。筆者がぞっと感じたのはほんとうだろうし、読んでいる私もぞっに感染した。だが言葉を持たない方が優れていることもある。あなたは本物の孤独を感じたことがない。
では、目に映る全てを詩にしているあなたの行動に、どれほどの生産性があろうか。それは無駄な時間ではないのか。たまたま、あなたには天賦の才能があり、あなたの作品が評価されることになり、売れて消費される品物となったかもしれないが、彼がもしその瞬間、詩をつくっていたらどうする。あなたが過ごした時間と、本質的には同じではないのか。
生産性がある行為といえば、例えばブドウ球菌が増殖するのは生産性があるだろうか。子孫を残したら生産性があるのだとすれば、ブドウ球菌業界では「評価」されるのだろうか。確かに彼はあなたを不快な思いにさせたかもしれないが、それはあなたの感覚でしかない。何の危害も加えてこない、別の認識世界を生きている、国籍も違う1体のオスのホモサピエンスの時間を、「無駄」と推し量るのはいかがなものだろうか。
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「万年雪」と「砂」、そして「白く笑う」が好きである(「白い石」「灯たち」「ハンカチ」「息」「レースのカーテン」も。迂闊に好きとは言えない苦しい推し節もある)
共通したテーマをもつ散文詩の作品群は、内容的にずいぶんとバラエティに富んでいても、心地良い通低音が絶えず流れている。その洞察の発露は、かなりの長い期間、拘りを持ち続けた筆者によって書かれているので、繊細かつ発見に満ちている。
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「糖衣錠」の節に、急に堂々と顔を出したトラウマに対する脱皮には、あっと驚かされた。その次の「角砂糖」では少し明るささえ湛えている。この引っ込んではひょこりと顔を出す、行きつ戻りつの過程こそが、トラウマの根本的な性質なのだ。
私がそう精神医学的な解説を加えてしまうと、するりと皆の目の前を通り過ぎていってしまうけれど、これほどの質量の作品群からは、彼女の過ごすひとつひとつの時が、ゆっくりと読者の胸に降り積もりながら、読者のこころの奥に堆積してゆく。
作品群のひとつひとつが、筆者がトラウマを乗り越え、自己を象(かたち)造っていく癒しの道だった。心なしか、読み進めていくと、だんだんと著者の文体に、元気を感じるようになる。
それでもトラウマは、しつこく、ねちねちとことあるごとに顔を出す。
だけど私達読者がこの道をなぞることで、さらに確実に、彼女の傷は癒えていくだろう。そして彼女の傷は、人の倫を造るだろう。