マスメディアは「正しいこと」を報道しようと努力する。
しかし、「正しいこと」には別の「正しいこと」が返ってくる。
それは果たしてコミュニケーションなのでしょうか。
新聞とは正しいことをキチンと書いて伝えるものだと思ってきた。
でもそうしてがんばって書いた記事の反響は驚くほど少なかったそうだ。
逆に、著者自身のことを赤裸々に綴ったコラムは、驚くほど大人気に。
「元気が出た」とメールや手紙が大量に来た。もちろん批判もあった。
でも世の中のことであっても「だれかのこと」でなく「自分のこと」として、せめて泣きたくなるような実感をつづらねば相手にしてもらえないと追い詰められた気持ちで書いていた。
そうして「新聞記者」ではなく自分のこととして世の中を見て。
痛感したのは何が正しいのかなんてわからないということ。
皆んなその中を悩みながら生きている。
だから苦しさを共有するコミュニケーションが必要なのだ。
なのに分からないのに分かったような図式に当てはめて、もっともらしい記事を書いてこなかったか。不完全でいい、肝心なのは心底悩み苦しむことではなかったか。
本書では、著者の記者として生きてきた日々の葛藤が綴られる。
著者は、日本のジャーナリスト。自称「無職で独身のアフロ」。
朝日新聞に在職中に朝日新聞「ザ・コラム」の連載でアフロヘアにした理由や節電生活の実態を率直に綴り、その新聞らしからぬ書きぶりから大人気に。
節約生活を綴ったエッセイなどもおもしろいです。
世に言う閉塞感とはつまるところ、人間が人間であることを許さない社会ではないだろうか。
景気も社会も行き詰る中で、全体が生き残るためには個はどこまでも後回しにされ、誰もが置いていかれないよう、切り捨てられないようビクビクしながら生きている。
今求められているのは「立派な見解」でも「正しい意見」でもない、ふつうの弱い人間同士が共感し励ましあえる場なのではないか。
人々の「わかりあいたい」という思い。
その切実さは私たちが思う以上にずっと切迫しているのかもしれない。