「やってみなはれ」。鳥井信治郎の愛用語である。著者によれば、三つの意味があるらしい。一つは「やってみなければ何も始まらない」、二つ目は「それで失敗しても構わない」、三つ目が「失敗の中に必ず成功につながる何かがある」。これほど愛情深い言葉があるだろうか。
上巻に続く本書は、サントリーを国際企業に成長させた創業者の物語である。それと同時に、明治、大正、昭和という激動の時代を生きた一人の商人の生涯を綴っている。
二十歳にして鳥井商店を開業した鳥井信治郎。
試行錯誤の末に赤玉ポートワインが完成し、売り上げがようやく出始めた頃に、信治郎は次に葡萄酒の何倍も困難なウイスキー造りに挑むことを決意する。
そして周りの反対を押し切って、京都の山崎にウイスキーの蒸留所をつくる信治郎。彼は、きっとあるに違いないと信じる見えない市場に向かって、ひたむきに突き進んでいく。
熟成させたウイスキーが商品になるのには早くて五年、もしかすると十年かかるかもしれない。それなのに建設費だけで二百万円(現在の金額に換算すると十数億円)もの費用がかかり、しかもその間まったく利益を生まない。そんな事業を一人で押し切っていく彼は、いかに不安で、いかに孤独だったのだろう。
夢に向かう信治郎の前には、様々な困難が立ちはだかる。関東大震災、戦争による大空襲、大切な人の死。平和な時代にのうのうと生きている評者には、想像も及ばない。
普通なら生きることを諦めたくなってもおかしくないような困難に遭い、一時は深く落ち込むこともある。だがその次の瞬間にはもう前を向いている信治郎。マイナスを何としてでもプラスにもっていく彼の底力には、驚くばかりである。
成功者というのは、特別な才能をもった人でも、運の良い人でもない。成功するまでやる。それだけである。失敗をものともせず、むしろ踏み台にして、次へ止まることなく進んでいく。
「諦めなければ夢は叶う」とはよく聞く言葉だが、鳥井信治郎の場合、「諦めない」というよりも、「やらずにはいられない」と言うほうがしっくりくる。誰にも止められない。まさに激流のように進んでいくのである。
評者は正直に言うと、企業や経済にあまり関心が持てない方の人間である。好きな小説ならと、本書を手に取った。もちろん企業小説としての側面は強かったが、人間ドラマとしての読み応えも十分であった。働くとは何なのか、商売人としての心構え、そして生きるとはどういうことかを教えてくれる作品である。