終戦記念日がおわりましたが、果たして8/15が何で終戦記念日なのでしょうか。8/14にポツダム宣言を受諾し各国に通告、8/15日本が降伏宣言(玉音放送)、しかし、ソ連の侵攻が続き8/20ソ連→樺太真岡郵便局事件、そして、9/2重光葵(まもる)がミズーリ号で調印。なので、9/2が終戦記念日と思う今日この頃です。今回は大東亜戦争(第二次世界大戦)について少し学び、この調印した重光葵(まもる)と大東亜戦争とよばれる由縁、アジア諸国の礼賛についてお伝えしたいと思います。
重光葵は昭和七年、上海におり、天長節の式典に参加していました。そこで、国歌斉唱中に爆弾が投げ込まれ、片足を失います。国歌斉唱中だったので、動くと不敬なので逃げなかったのです。凄い胆力と忍耐力です。その後、重光葵(まもる)は東条英機内閣の外務大臣になります。そして、大東亜共同宣言を提唱し、大東亜会議を開催し、戦争の目的を「アジア解放」と位置づけたのです。本書にはこう書かれています。
【「首相もご承知のとおり、英米は大西洋憲章を説い小国民、小民族の保護者と宣言しておりますが、その実はバルト諸国やポーランドを画したように小国民は牲になっております。」
【しかるに日本は、小国民,少なくともアジア民族に自由を与え、自由を保護する地位に立っており、そのため主権尊重と平等対等な関係を基本にした大東亜憲もしくは太平洋憲を作るベきと考えます」】
【「アジアの解放、建設、発展が日本の戦争目的です。帝国はすでに支那において平等に取り扱う新政策に乗り出しております」重光は、大東亜戦争を英米の「大西洋憲章」に対抗し、アジアの解放をめざした「大東亜意章」を提言したのである。】
当時は西洋の植民地として東南アジアは支配されていました。そこで、その国の解放を目的としたのです。でも、大東亜戦争として知っている人は少ないのではないでしょうか。その理由を本書から引用します。
【現在、学校の教科書は、大東亜戦争をGHQが強制した太平洋戦争という呼称に変え、アジアの解放ではなく侵略戦争と教えているが、実は、日本の戦った戦争は、太平洋戦争ではなく大東亜戦争であり、アジアの解放という理念を掲げ戦ったのである。】
もともとは大東亜戦争が日本の呼称でしたが、GHQの戦略で太平洋戦争に変わったのです。その後、戦争が終わり、アジア諸国はどのように言っているのでしょうか。
【バー・モウは「ビルマの夜明け」において、「日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢缺した国はない」「日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割は、いかなることをもってしても抹消できない」「東京で開かれた大東亜会議、この偉大な会議は、十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった」と述べている。
このように日本の大東亜戦争や大東亜会議がアジアの解放に大きな役割を果たしたと、多くの人が評価している。インドのラダ・クリシュナン大統領は、「インドが今日独立しえたのは日本のおかげであり、それはベトナムであれ、カンボジアであれ、インドネシアであれ、旧植民地であったアジア諸国は、日本人の払った大きな犠牲によって独立できたのである」と総括している。
日本は、アジアの解放を達成したのである。大東亜戦争緒戦の日本軍の快進撃は、長いあいだ植民地国として諦めていたアジア諸国を目覚めさせた。
日本軍勝利のニュースはシャルル・ド・ゴールをして、「欧州によるアジア支配の終焉」といわしめた。「欧州によるアジア支配の終焉」を日本軍が実現したのである。】
日本は提唱しただけでなく、敗戦はしたもののアジア解放の目的を達成したことが、アジア諸国の言葉からわかります。戦後も、重光葵(まもる)はGHQ占領下でマッカーサーやダレスなどと交渉して、日本が出来るだけ有利になるように交渉を進めていきます。
願くは
御国の末の
栄行き
吾名さげすむ
人の多きを
ミズーリ号での調印の日、重光葵(まもる)が詠んだ歌です。その時、「将来、重光の名を多くの人が蔑(さげす)むほどに、日本国が栄えることを願う」という意味らしいです。誰が重光翁を蔑むことがあるのでしょうか。重光翁をはじめとする戦時中の方々の御蔭で敗戦国ながらも経済発展をし、我々の生活があるのだと感じずにはいられません。日本がアジア諸国の解放をしたことなどを学べる一冊です。
発行 2011/8/5
著者 福冨 健一
出版社 講談社