「いいんですよ、部屋代なんていつだって」
著者が作家として今日まで生きてこれたのは、「逗子なぎさホテル」で過ごした日々があったからだった。その七年余りの日々は、時折、思い起こしても、夢のような時間であった。
本書は、作家、伊集院静さんが、今はなき”逗子なぎさホテル”に逗留した経験を綴った、自伝的随想である。
東京での暮らしをあきらめ、行き場をなくしていた著者。他人と折合うことができず、家族とも離別し、著者は孤独で、疲れた若者だった。
東京をいざ離れようとしたとき、「そういえば関東の海を見ていなかった」と、ふと立ち寄ったのが逗子だった。
そこで著者は”逗子なぎさホテル”の支配人と出会い、結果的に七年余りもの間そのホテルで暮らすことになる。
そこでは、支配人、副支配人をはじめとする他の従業員の人たちまでが、まだ青二才の若者だった著者を家族のように大切にしてくれた。
自分のような傲慢で自分勝手な若者に、なぜあれだけの人たちがやさしくしてくれたのか、今でも不思議に思うそうだ。
だが、作品を読んでいると気付くが、著者の中には間違いなく、大きな優しさや、人としての正しさがある。決して損得勘定で物事を判断しない。なぎさホテルの支配人にはそれが分かっていたのだろう。
そして驚くべきは、支配人や多くの人が、当時から著者の中に作家としての才能を見出していたこと。彼の優れた観察眼や感性に気づいていた。そしてそんな若者の未来の可能性を信じていた。もちろん彼自身のことも。
人と人が出会うということは奇妙この上ない。その時、その場所で、自分自身に全幅の信頼を寄せてくれる人々に出会ったことは、著者の人生を間違いなく大きく変えた。そして作家としての生へと導いてくれた。
本書を読んで、人生において、人と人は出会うべくして出会うものなのかもしれないと感じた。そして優れた人同士が出会うのは、深い部分で、お互いの感性が響きあうからなのかもしれない。